「拾う人」 ―兼田言子写真展「tan・tan・tan」に寄せて
ふと気に留めて手を伸ばす――拾う動作は、次の動作を引き起こして連続していく。そこには遊びの持つ飛躍の契機が詰まっている。
――石塚純一「拾う人8 ―屑拾い(2)」(「グラヌール」第9号)
幼い頃、ガラクタを集めては自分だけの秘密の場所に隠しておく、ということを誰もが一度はしてみたことがあるのではないでしょうか。もしくは海岸で、気づけば石ころや珊瑚のかけらでポケットがいっぱいになっていたという経験をしたことはないでしょうか。不思議なのは、その時は夢中で拾っているのにいざ持ち帰ってみると目の前の膨大なガラクタや石ころの山に途方にくれてしまうことが少なからずある、ということです。
兼田言子の写真には、どこかそんなところがあります。
カメラを持って何かを撮っているときは非常に楽しそうです。それなのに撮ったフィルムが現像されないまま何年もほったらかしにされているというのは日常茶飯事で、「あの時撮った写真はどうなっているのか」と友人や家族から苦情を受けるほどです。海岸で拾う石ころは、必ずしも家に帰って鑑賞したり、誰かに見せるために拾うわけではありません。その時、その場所でなにかに惹かれ、つい自分のポケットに放り込んでしまうだけで、特別な目的をもっていることの方が稀です。同じように、彼女の写真も何か目的をもって撮られてきたというより、「石拾い」の延長としての「像拾い」の集積である、といった方が正確であるように思います。
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「グラヌール」という札幌の石塚出版局から発行されている雑誌があります(現在は休刊中)。グラヌール=Glanuresとはあの、ミレーの絵で有名な「落穂拾い」の意です。言葉を紡ぐこと、編集することといった本(雑誌)をつくる過程を「落穂拾い」の姿に重ね編まれた、野心的で思慮深い出版物です。
その中に「拾う人」という出版局の石塚純一さんによる連載があります。拾うことの文化史、ともいえるこの連載では、鎌倉時代の屑拾いや農村の薪拾い、浜辺に打ち上げられた寄り物=漂流物など、「拾う」という身振りについて様々な角度から書かれたとても興味深い論考です。
兼田言子の写真に寄せて何かを書こうとしたとき、まず浮かんだのはこの「拾う人」という言葉でした。「拾う」とひと言でいっても、たとえば「落穂拾い」と「海岸の石拾い」ではまったく異なったモードの行為ともいえるように、多様なあり方が存在しています。ただ「拾いもの」に共通していることをひとつ挙げるとすれば、ある人には全く無用なものが、拾う人にとっては程度の差はあれ何かしらの価値を持っている、ということではないでしょうか。石塚さんによれば人の手を離れた「拾いもの」は神仏の持ち物である、という考え方も古くからあるそうで、そこにはわたしたちが何かを拾うとき、じつは「拾って」いるのではなく「拾わされて」いるのだという発想が根底には感じられます。その点で、理由も目的もなく、場所や時を異にして拾ったモノが不思議な共通項を持つことがしばしばあることはとても示唆的なことです。
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同出版局の石塚千恵子さんは「グラヌール」第10号の中で「連帯とは何か」といういささか唐突とも思える問いについて触れています。新鮮な驚きとともに文章を読み進めていくと「拾うこと」と「連帯」とはとても近い関係にあることに気づきます。というのも、人は何かを「拾う」ある一瞬において、そのモノと無意識のうちに交信/交感し、それまでは無関係だったモノ同士が関係を結び、中には自分でも気づかずにいた深い関係がずっと以前から結ばれていたのではないかと感じるようなことさえあります。その関係を「連帯」と呼ぶならば、「拾う」という行為によって集められたモノたちの間にも不思議な「連帯」が存在している、と言ってみることができるのではないでしょうか。そして、その見えない信号にチャンネルを合わせるようにして拾われたものに、さらに共振する者たちの間にはまた新たな「連帯」が生まれていきます。
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兼田言子の目的なき「像拾い」に今敢えて目的を与えるならば、それは、彼女の持つ交感のアンテナを媒介に写真に撮られるという一瞬において、または、それらの写真に共振することを通して、見知らぬモノ(人/場所/時間)同士がゆるやかに繋がり合い、新たな飛躍の契機を生むことなのだと、ひとまずそう言ってみたいと思います。そして最後に付け加えておきたいのは、冒頭に引用した一節の中で石塚さんが指摘するように、「拾う」という行為はいつもどこかで「遊び」と連続しているということです。持ち帰ったガラクタに途方にくれつつも、そのひとつひとつをもう一度じっくり眺めているとそれらが次なる「遊び」へとわたしたちを誘いだすように、兼田言子の「像拾い」の末に積み上げられた像の山も、「遊びの持つ飛躍の契機が詰まってい」ます。直線的で硬直した思考から離れ、次なる「遊び」に向かいだしたときに初めて、それ自身も再び生きはじめるのでしょう。
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写真はいつの頃からか「像を写す」こと自体への興味から、写された「像を見せる、鑑賞する」ということの方に多くの関心が寄せられるようになってきました。そう考えると、「像を写す=拾う」こと自体への原初的な身振りを保ち続けていることこそが、彼女の写真の稀有な点でもあり、ユニークな交感のアンテナと同等に写真を魅力的にしている(=遊びへ誘う)重要な要素なのかもしれません。
野村由未来 (BEKA)
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